はじめに
北欧・デンマーク王国は、日本ではデザイン、福祉、農産業、教育など様々な面で注目をされているが、その歴史や実態は現在もあまり知られてはいない。
本研究では、そのデンマーク王国の形成を探ることから始め、都市形成の成り立ちを明らかにし、把握していくことで今後のデンマークにおける諸処の研究に結びつける基礎研究とすることを目的としている。
デンマークはスカンジナビアの重心国としても成長してきた国であり、その歴史の中で王都であるコペンハーゲンの街が形成されてきた。しかしノルウェー、スウェーデンを含むこれら北欧における建築やその歴史が把握されない理由の一つに日本における現地語習得の困難さがある。
そのため研究を行うにあたっては2001年より現地にてデンマーク語の習得から開始した。そしてその言語理解を元に、コペンハーゲンの都市に関する文献から、まずは歴史のひとつの区切りとなる1856年の防壁撤去までの国および都市形成を明らかにしていった。
本稿ではその19世紀半ばまでにおけるコペンハーゲンの都市形成において、特に重要と思われる3項目について述べる。
遷都
1167年にアブサロン司教によって設立されたコペンハーゲンが王国の中心都市となった年は、宗教改革により王室が教会より権力を奪った1536年とされているが、すでに1443年にはコペンハーゲンに王室の拠点が移されされている。
それ以前は首都機能はコペンハーゲンより西へ約40km離れたロスキレ[Roskilde]にあった。
この王室拠点の移動は当時のクリストファ3世王により行われたものであるが、その背景には王族と教会との権力抗争が深く関係している。
それまで、デンマークを含むスカンジナビア一帯ではキリスト教(カトリック)が信仰され、貴族がその司祭職を担い、地域を管轄していた。これにより貴族及び教会は国及び政治に対して非常に強い権限を持っていた。コペンハーゲンの集落もロスキレ教会区の管轄下にあった。
しかし1397年のマグレーテ1世(事実上の女王、当時は女性王位権はなかった)を中心としたノルウェー、スウェーデンとのカルマル同盟により、スカンジナビアにおける覇権を得たデンマーク王室は1416年にロスキレの司教からコペンハーゲンの支配権を奪い、さらに1429年にはコペンハーゲンの東を走る北海とバルト海を繋ぐ海峡に通行税を設けた。
これらの収益やノルウェー・スウェーデンからの税収により権力を強めていったデンマーク王室は、1443年にクリストファ3世王によってそれまで教会が中心となっていたロスキレの街から、当時はまだ小さな漁村であったコペンハーゲンへと王室の拠点を移した。
この頃のコペンハーゲンには、1167年にアブサロン司教により、南方(現在のドイツ北部)からの襲撃を防ぐ目的で築かれた砦が、増築を繰り返してコペンハーゲン城となり、集落の南の島部に建てられていた。
また当時は現在のスウェーデン南部におけるスコーネ地方がデンマークの領土であり、コペンハーゲンはその当時の国領土のほぼ中心に位置した立地であった。そのようなことからも王室を拠点とした都市にコペンハーゲンの街は適していた。
これ以降、今日に至るまでコペンハーゲンはデンマークの首都として機能している。
クリスチャン4世王による都市の拡大
△ 図1 クリスチャン4 世王下のコペンハーゲンの拡大の様子(1630 年頃)
△ 図2 ニュボダー集合住宅の図面と配置図
1588年に前王である父の死去によりわずか11歳で即位したクリスチャン4世王は、成人するまでの間に様々な教育を受ける。特に芸術的な才能が高かったクリスチャン4世王は当時のオランダ建築よりルネッサンス様式を学んだとされている。
その後成人したクリスチャン4世王はすぐにコペンハーゲンの都市の拡大と軍事の強化を行う。これらは王自らが都市計画や建物を設計し、指揮も取ったとされており、彼の筆跡による多くの手紙や手記などは現在も残されている。
またクリスチャン4世王の設計したルネッサンス様式の巨大建築物は、現在でもコペンハーゲンの中心街や他の都市に残され、様々な用途で使用されている。
クリスチャン4世王の都市計画の特徴としては、まず、それまで街があった対岸を整備し、新たな集落を設けたことがある。
計画はオランダ人技師によって行われ、運河を用いた配置形成がされ、その土地はクリスチャンの港という意味のクリスチャンスハウンと名付けられた(図1内A)。
またコペンハーゲン城の南には軍事の拠点となる海軍基地が設けられた(図1内B)。
その際、基地から海への入り口に街のランドマークとなるオベリスクが海上に建てられていたが、このオベリスクは現在は残っていない。現存する数々の地図を見て行くと、1807年のナポレオン戦争下におけるイギリス海軍の襲撃以降に地図上から見られなくなっている。そのため、この時の襲撃により破壊されたのではないかと現在のところ推測される。
コペンハーゲンの街はこの海軍基地を内包したことで、その防衛機能は格段に増すこととなる。以降、その歴史においてこの王都が大きな破壊を受けるのは、1801年と1807年のイギリス海軍による海上攻撃と、1728年と1795年の都市内部からの大火による焼失である。
さらに防壁を拡大延長させる中で、クリスチャン4世王は1631年より都市の北部にこの海軍兵士とその家族のための集合住宅を配置した(図1内C)。
ニュボダー[Nyboder](「新住居」の意)と名付けられたこの集合住宅は、現在のデンマークの低層集合住宅の手本となっているものであり、その後何度か再開発案が持ち上がるものの、今日に至るまで住居として利用されている。
黄金時代と防壁の撤去
1754年に、クリスチャンス宮殿内に開校した王立芸術アカデミーにより、デンマークには数々の作品と建築家が育てられて行き、デンマークにおける建築文化が育っていった。
19世紀初頭にナポレオン戦争による被害を受けるものの、戦争終結後の1815年以降、デンマークは文化及び人材において華々しい発展を遂げ、この時期は「黄金時代」と呼ばれている。
建築においては、1795年の大火や1807年のイギリス軍からの襲撃による復興として、建築家C.F.ハンセンの指揮により多くの古典様式の建造物がコペンハーゲンに建てられた。
そして19世紀中頃には、産業革命によるロスキレ-コペンハーゲン間の鉄道の開通(1847年)、大規模工場の誘致による人口の増大、ドイツ国境間におけるホルステン=スレスヴィグ問題(1848〜1850年)、絶対王政の廃止(1848年)や自由憲法の施行(1849年)、コレラの流行(1853年)など様々な事象が重なり、1852年に都市への門は開放され、1856年には4世紀に渡って囲われてきたコペンハーゲンの防壁は撤去された。
この後、コペンハーゲンの都市及びデンマーク王国はそれまでにない爆発的な成長期を迎えるのである。
結論
上記のようなことから様々な要因を経て形成されたこの王都は、防壁解放以降、急激に発展して行くその過程において様々な居住に関する試行が行われていく。
筆者はそこに現在のデンマークのコミュニティ形成を探る核があると推測している。
しかしそれを知るためには、まず本研究のコペンハーゲンの形成史や、各時代におけるデンマークの情勢やスカンジナビア諸国との関係なども明らかにし、把握する必要がある。
そして今後、19世紀後半から20世紀前半におけるデンマークの居住理念の研究を行うために、まずこの防壁に囲まれたコペンハーゲンの街の形成及び建築の潮流を把握することを基礎としたいと筆者は考えている。
その中で、もっとも核となるものは、本稿で述べたコペンハーゲンの都市の骨格形成となる都市計画が行われた“17世紀におけるクリスチャン4世王の都市計画”であり、今後はそこを中心にコペンハーゲンの形成史研究を進めて行きたい。
参考文献
- 1) W. Mollerup : "DANMARKS GAMLE HOVEDSTAD", 1912
- 2) Kirsten Lindberg : "SIRENERNES STAD KØBENHAVN", 1996
- 3) Steen Eiler Rasmussen : "KØBENHAVN", 1969 他