はじめに
現在人口約55,000人が暮らす世界最大の島グリーンランド。
国土の約85%が氷で覆われ、デンマークに経済支援を受けながらも自治政府を持つこの国の生活様式は、日本ではほとんど知られていない。
カナダから繋がるイヌイットの文明と、ヨーロッパから繋がるスカンジナビアの文明とが交差するこの最北の地は、民族や歴史だけでなく都市文化としても非常に興味深いものを持っている。
本研究では、これらグリーンランドの歴史や生活様式、都市形成を明らかにすることにより、都市と人類、自然との密接な関わりと、極地環境におけるコミュニティの形成を学ぶことを目的としている。
イヌイット文明
△ グリーンランドの各文明の年代別存在表
△ グリーンランドへの民族の移動図
△ イヌイットの移動の民の暮らしの様子
紀元前4500年頃までカナダとグリーンランドは巨大な氷で覆われ、大陸は繋がっていた。
最初の住民たちはこの氷の上を辿り、紀元前2500年頃にはグリーンランド島の最北端に辿り着いたとされている。
その後200〜300年の間に、島の氷で覆われていない地域は旧エスキモー人として知られる北極の狩猟民族の居住地となっていった。
そして気候変動により徐々に地球の気温が上昇し、氷が解け始めると、その人口も増えていった。
最初にグリーンランドの地に暮らしていたのは、群れで移動する習性のあるジャコウ牛やトナカイを追ってアラスカ地域から移動してきた狩猟民族だった。
アラスカからグリーンランドにかけて見つかっているこの時代の骨や石で作られた道具には、共通の文化的特徴を見ることができる。
紀元前2000年頃のグリーンランド島では、島北部でジャコウ牛を主な獲物とする狩猟民俗の独立第1文明と、島南部でアザラシやトナカイを獲物とする狩猟民族のSaqqaq(サカク)文明が混在していた。
紀元前1000年前の少し前には、カナダから独立第2文明と呼ばれる新しい移住者がやって来る。
その後はカナダの極東であるニューファンランド地方からグリーンランドの海岸に沿った一部で、ドーセット文明の繁栄が500年続いた。
このドーセット文明は途中で一度グリーンランド島から姿を消すが、1200年頃までは存在しており、アザラシ漁やトナカイ猟をして生活していた。
10世紀の終わり、北半球に大規模な環境変化が起こる。これにより島の気候が若干暖かくなると、カナダ諸島の周辺を覆っていた氷は姿を消し、ヒゲクジラなどの海の生物が移動を始める。
現在のグリーンランド人の祖先は、このヒゲクジラを追って12世紀頃に北アラスカの東から大きな皮の船(ウミアク)に乗ってやってきたテューレ文明のクジラ漁民族である。
そしてテューレ文明の入植とほぼ時期を同じくして、ドーセット文明はグリーンランドから姿を消している。
1721年にノルウェーからの使節団が来るまで、グリーンランド島で暮らすテューレ文明の末裔たちは、狩りと漁を中心に小さな集合体で暮らし、石や泥炭やシベリア付近から海流に乗り運ばれて来た流木を利用して建てられたテントや小屋に住み、獲物となる動物たちの移動と共に移住をくり返していた。
スカンジナビア文明
△ 赤毛のエリックの碑
△ 赤毛のエリックたちが目にしたと思われる現在のカシアースク
△ Brattahildの跡地
△ 再現されたErikの農場とThjodhildur教会
△ Brattahild村の当時の様子
△ リーフ・エリクソンの像
北ヨーロッパでのバイキングの時代、彼らは北ヨーロッパ大陸から北大西洋の西へ勢力を拡大し始める。
ノルウェーの西海岸よりフェロー諸島、アイスランド島と入植していき、985年に最初のスカンジナビア人の赤毛のエリック(Erik the Red)がグリーンランド島に入植する。
赤毛のエリックは960年頃にノルウェーからアイスランドへ、父親の殺人罪で家族で追放される。
さらに982年、今度はエリック本人が近隣とのトラブルで相手を殺してしまい、その刑罰としてアイスランドの西にあるとされる未確認の氷河におおわれた大きな島の調査を命じられる。
この頃のバイキングはアイスランドとノルウェーやデンマークの間を頻繁に行き来しており、その際にアイスランドより西へ漂流した船により、未確認の島(グリ−ンランド島)の存在が確認されていた。
エリックはその島の実態を調査するよう命ぜられたのである。
3年かけてエリックはグリーンランド島南部を確認し、アイスランドへと戻ってくる。
そして調査報告により刑を終えたエリックは、自らがグリーンランドの指導者となって新しい居留地を作ろうと考え、移住希望者を募集した。
この時、アイスランドの過酷な環境よりもより緑多い大地があるということでこの島はグリーンランド(Greenland)「緑の国」と名付けられ、それが島の名前として今日にも至っているのである。
こうして985年に最初のスカンジナビア移住者がアイスランドから25隻の船でグリーンランドに向かう。しかしこの時の航海で無事に目的地にたどり着けた船は14隻だけだった。
そのエリック一行が最初に入植したのはグリーンランド南部の現在のカシアースク(Qassiarsuk)地域であり、彼らはこの地をBrattahildと名付けた。
現在カシアースクの村の外れにはこのBrattahildの跡地があり、1961年には当時建てられていたとされる”Erikの農場”と”Thjodhildur教会”が再現され、現在は多くの観光客が訪れている。
その後もアイスランドからは新しい移住者が次々と到着し、人口は徐々に増えていく。
そのアイスランドからの航海の船の何隻かは、グリーンランドにたどり着けずにさらに西に流され、そこで新たな別の大きな島(カナダ諸島)を発見した。
その話を聞いたエリックの長男のリーフ・エリクソン(Leif Ericson)は、997年にその新しい西の土地を目指して出航する。
リーフ・エリクソンは現在のバフィン島を発見した後、さらに南下をしていく。その後「ヴィンランド」と名づけた場所まで行き、そこに今後の拠点とする基地を築き、西暦1000年にひとまずグリーンランドへと戻っている。
グリーンランドへの帰還後、リーフ・エリクソンは新たに160人の男女を連れてヴィンランドの基地へと移住し、そこからさらに新たな土地を求めて南下を始める。
しかしそこで北アメリカに暮らしていた先住民族と遭遇し、両者の間で激しい戦闘が起り、その結果リーフ・エリクソンとその一団はヴィンランドの基地を放棄し、グリーンランドへと引き返した。
このヴィンランドでの話は当時から伝記として受け継がれ、やがてFlateyjarbokと呼ばれるアイスランドの最古の歴史書に文字として記される。
ヴィンランドでの戦いから約5世紀後、アメリカ大陸を発見したとされるクリストファー・コロンブスは、1477年にまずはアイスランドへ赴き、このFlateyjarbokの記述を元にしてアメリカ大陸へ渡り、そしてその存在をヨーロッパに紹介したのである。
赤毛のエリックのスカンジナビア居留地は、経済的にはアイスランドやノルウェーとの交易に依存し、農業とアザラシ漁を中心に生活を行なっていた。
先住民であるイヌイットとも時々セイウチのキバやイッカクのキバなどの交易を行い、それらはヨーロッパに高い価値で取引されていた。
1124年にはノルウェーからカトリックの宣教師が赴任し、やがて1261年にスカンジナビア居留地は正式にノルウェー国の一部となる。
そして1397年にデンマークがノルウェーやスウェーデンと連合を組みデンマーク帝国が誕生すると、ノルウェーが所有していたグリーンランドを含む北大西洋地域はデンマーク帝国の統治下におかれる。
この時に始まった関係が、現在もデンマークがグリーンランドを領土として所有し続けていた由縁である。
その後もグリーンランド島のスカンジナビア居留地は徐々にその規模を拡大していくが、15世紀に地球を襲った激しい気候変動により北大西洋地域の気温は大きく下がり、スカンジナビア人はグリーンランドでの生活を捨てて、アイスランドやノルウェーへ戻り、グリーンランド島から姿を消している。
しかしその間もイヌイットのテューレ民族はグリーンランド島で生活をし続けており、徐々にグリーンランド全土へ散らばっていくのである。
ヨーロッパ文明
△ ヨーロッパの捕鯨船による捕鯨の様子
その後もアイスランドやニューファンドランド周辺の北大西洋海域は優れた漁場として利用され、北欧やイギリスなどからは多くの漁船がやってきていた。
そして1570年代と1580年代にMartin FrobisherとJohn Davisの2人のイギリ人がグリーンランドとカナダの間の海を航海し、ヨーロッパ人がカナダのエスキモー住民と接点を持つきっかけとなる北西航海路を開拓する。
ちょうど同じ頃、オランダ人がグリーンランド西武の海域にホッキョククジラが多数生息していることを発見して漁場を確保し、クジラの脂とクジラのひげの貿易市場を開拓していく。
しかしこのオランダの行動はヨーロッパの他の国々との海域権闘争を巻き起こし、特にデンマークの王はノルウェーの海として知られていた北大西洋地域の歴史的統治権を主張した。
そしてこれを機に、1605年からデンマーク−ノルウェー連合国(すでにスウェーデンは脱退)は再びグリーンランドへの入植を始める。
しかしオランダ人はその後もグリーンランド西海域での捕鯨活動を続け、それは海域権の規制がされる17世紀の終わりまで続いた。
植民地時代
△ 布教の様子
△ ハンス・エゲデ牧師の頃のヌーク
△ 半木造住宅
△ 半木造住宅の内部
△ 1861年に刊行された現地の新聞
△ 最近の住宅の外観
△ 最近の住宅の内部
△ 建設現場の様子
1721年に、グリーンランド島はスカンジナビア人により再び植民地とされる。
この時、デンマーク−ノルウェー連合国のノルウェー人宣教師ハンス・エゲデは、キリスト教への信仰が薄れていたスカンジナビア居住地に再び信仰を広めるためにグリーンランドへと渡った。
現在の首都・ヌークにその拠点を置いたハンス・エゲデの使節団は、布教だけではなく貿易所を拠点にイヌイット住民やオランダ人とも交易を行っていった。
そして18世紀を通してグリーンランドの西の海岸沿いに多くの貿易拠点を開拓していく。
1774年には国の貿易管理機関としてロイヤル・グリーンランド貿易機関が組織され、貿易管理が行われるようになる。
そしてキリスト教使節団やロイヤル・グリーンランド貿易機関による貿易ルートの拡大は、ヨーロッパ大陸からグリーンランドに角材や板といった木材を輸送することを可能にし、これによりグリーンランドの建物の壁や屋根には木材が使われるようになるのである。
そして19世紀には支配国であるデンマーク語の普及もさる事ながら、それまで口頭での伝承しかなかった現地語であるグリーンランド語にも文字形態を与えられ、教育や宣教活動などを通して残されていく。
植民地での教育機関の整備、世界初の植民地現語での新聞の発行、各地域からの代表により運営される地方自治体制度の整備などが行なわれ、グリーンランド島の文化は様々な形で高められていくのである。
そしてその後もスカンジナビア人によるグリーンランド島の調査は進められ、1818年には西グリーンランドに新しいエスキモーの居留地を発見する。
さらに1823年にイギリスの捕鯨漁師たちが最初で最後の北東グリーンランド人と遭遇している。
やがて1878年にグリーンランドの地形と地質の調査委員会が組織されると、グリーンランドの全体像がよりはっきりと解明されていき、1884年にはアマーサリク(Ammassalik)の近くの東グリーンランド人が発見された。
19世紀から20世紀にかけて気候はより穏やかになり、それまで漁の中心だったアザラシ漁だけでなく、新しい魚の産業や羊の放牧が普及していく。
そしてキリスト教使節団の役割はグリーンランド現地の教会に受け継がれ、植民地の議会は現地の組織に代わっていった。
1931年、ノルウェーがデンマークの統治権が適用されていない無人エリアである東グリーンランドの一部を占領することを宣言する。これをきっかけにグリーンランドの統治に関してヨーロッパでの裁判が起こされ、1933年にオランダのハーグの国際裁判所がグリーンランドの全ての統治権はデンマークにあることを認める判決を下し、それ以降グリーンランドはデンマークの所有となった。
1950年に、グリーンランド議会は国を大きく変える決議書を発行する。これにより植民地時代よりデンマークが名付けていた各地の地名は、以前から現地で使われていた現地の言葉へと変えられていった。
20世紀になると住宅は単家族の木造住宅が主流になり、現在のテラスハウスの原型が建てられるようになる。
植民地時代の古い建物は、徐々に取り壊されていったが、いくつかはそのまま利用され、現在でも使用されているものも多い。
さらに1950年〜70年にかけて首都のヌークでは大規模な開発が進み、新しく計画されたメインストリートには多くの商店街やサービス機関が建てられていった。
植民地時代に形作られた主な都市
- Nuuk(ヌーク)
△ 首都ヌークの地図
△ 現在の首都・ヌーク
△ グリーンランド文化センター- Ilulissat(イルリサット)
△ イルリサット近郊の氷山群
△ イルリサットの地図
△ イルリサットの港- Paamiut(パーミウト)
△ 植民地時代のパーミウト
△ パーミウトの教会- Maniitsoq(マニトソク)
△ マニトソクの港- Aasiaat(アーシアート)
△ 現在のアーシアートの町- Sisimiut(シシミウト)
△ シシミウトの町
△ シシミウト博物館- Qaqortoq(カコートク)
△ カコートクの港
△ カコートクの町の噴水広場
△ Gertrud Rasch教会- Narsaq(ナーサク)
△ ナーサクの町
△ ナーサクの港
ヌークとは「岬」という意味で、その名の通り町は巨大なヌークフィヨルドの大きな半島の先端に位置している。
現在グリーンランドの首都であるこの町は、植民地の都市としてはグリーンランドで最も古く、ハンス・エゲデ牧師がこの地に辿り着いた1728年に作られた。
現在ではグリーンランドで最も多い13,884人(2003年)の人が住み、グリーンランド各地と世界の文化を結ぶ拠点となっている。
植民地時代からの美しい建物が残されている港には、当時から毎日その日の採れたての魚や肉の市場が並び、昔からの変わらぬ風景を現在も見ることができる。
また1992年にはグリーンランド文化センターが完成。その他にも大学、専門学校、大聖堂などが整備され、伝統的なグリーンランドの芸術に触れることのできる国立美術館も建てられている。
イルリサットとはグリーンランド語で「氷山」という意味で、1741年に貿易の拠点として設立された。
その名の通り町の近くでは氷河に流れ出る美しい氷山を間近で見ることができ、現在は観光地として賑わっている。
イルリサットの町は北半球で最も氷山を産出する全長40kmのアイスフィヨルドの氷河の河口にある。
また、犬そりは今でもこの地方では冬の重要な交通手段であり、現在は4800人の人々の他に2500頭のエスキモー犬が暮らしている。
町の重要な産業は漁業であり、港には多くの小型漁船やトロール船であふれている。
また町のシンボルでもある特徴的な黒いZion教会は1779年に現在の位置より50mほど離れたところに建てられたもので、1929年に現在の位置へ移されている。
町から1.5kmほど南に行くと、青々としたSermermiut(サマーミウト)平原がある。
アイスフィヨルドに続いているこの場所は、18世紀にはグリーンランドで最も多い250人の人が住む居留地であり、この地からは1000年以上前にも先住民が住んでいたことを証明する出土品が発掘されている。
「河口の民」という意味を持つパーミウトの町は1742年にKuannersooqフィヨルドの河口に設立され、現在は約2000人の人が暮らしている。
町の中心部にある郷土博物館は19世紀の建物であり、町のシンボルでもある特徴的な木造の教会は1909年に建てられたものである。
この町の主な産業は漁業だが、春と夏は海の交通が氷原から流れ落ちる氷山によって遮断される。しかし海に浮かぶ巨大な氷山の姿は魅力的であり、世界中から多くの観光客が訪れ、観光業も盛んである。
またこの町の付近はグリーンランド最大の「オジロワシ(海ワシ)」の生息地であり、野生のオジロワシを観察することができる。
さらに夏から秋にかけては、町の近海で高確率でナガスクジラ、シャチ、ザトウクジラなど様々なクジラに遭遇する事ができ、ホエールウォッチングなども人気を集めている。
マニトソクとは「ごつごつした場所」という意味で、町はその名の通り西海岸のマニトソク地域の特徴ある美しいフィヨルドに囲まれている。
現在約4000人が暮らすこの町は1755年にKangaamiut(カンガーミウト)コミューネが所有する居留地として建てられたが、1782年に現在のManiitsup(マニトスップ)コミューネに移された。
町は美しい群島に囲まれており、町自体もいくつもの島々と岬に分かれていて、それぞれが建物や階段で繋がれている。
グリーンランド住民はここにコテージやキャビンなどを建て、自然を楽しむ避暑地としても人気がある。
この地域には4000年以上前に先住民がいたとされ、多くの出土品がある。
植民地時代からある町の4つの建物は現在は博物館になっており、この土地で見つかった彫刻、骨や石鹸石、絵画や手工芸品などの豊富なコレクションが陳列されている。
アーシアートは「クモ」という意味で、コミューネのシンボルマークにも使われている。
1759年にハンス・エゲデの息子のニールスにより、オランダの捕鯨船の違法な捕鯨を防ぐのが目的でこの町から125km南の地点に居留地・Egedesmindeが建設されたが、1763年にその居留地が現在のアーシアートの位置に移されたのが始まりとされている。
アーシアートの町はディスコ湾の南に位置し、「千の島々」と呼ばれる美しい群島の先端に位置している。
島の多くは保護地域に指定され、貴重な鳥の生活の観察や、町の建設目的でもあったクジラの観察をすることができる。
現在は約6000人が暮らす「キツネの巣の住民」という意味を持つシシミウトの町は、グリーンランドでは首都Nuuk(ヌーク)に次ぐ2番目に大きな町である。
この地には4500年以上前にグリーンランドの先住民Saqqaq(サカク)人が住んでいたとされ、その後にも紀元前500年から200年頃まではドーセット第1文明が、1200年頃にはテューレ文明が滞在していた。
そして1764年に、捕鯨の新たな拠点としてこの地に居留地が移されたのが現在の町の始まりである。
1773年にはBerthel教会(青い教会)の建設が始まり、1775年に完成した。
この教会は、グリーンランドで最も良い形で現存する歴史ある教会で、現在も使用されている。
北極圏の北に位置するこの町は、グリーンランドでは氷のない港を持つ最北の町であり、犬そりが交通に使われる最南の町でもある。
また町の経済は近代的な装備を持つエビやカニの加工場によって支えられている。
町の古い住宅を改装したシシミウト博物館には、グリーンランドの先住民Saqqaq(サカク)人についての貴重な品々が展示されている。
博物館では他にも芝屋根の家などに関する貴重な展示を見ることができる。
1775年に居留地として作られた「白」という意味を持つこの町は、現在では約3400人が暮らす南グリーンランド最大の町である。
約3100人が町に、残り300人は周辺の3つの居留地でそれぞれトナカイや羊の牧場を営んでいる。
町中には造船所やアザラシ製品の加工場、魚の加工場など多くの会社や工場が立ち並ぶ。
毎日とれたての魚が水揚げされる港の横には、グリーンランドで最も古い噴水を持つ町の広場が広がっている。
町の救世主教会は1832年に建てられたもので、ノルウェーのDrammen(ノルウェー南東部の港町)より移築された。
教会の屋根裏はグリーンランドで最初の図書館として1940年まで利用されていた。
1973年に町の人口増加に伴い、別の場所に大人数を収容出来るGertrud Rasch教会が新設された。
険しい山の裾野に広がる平原に1830年に貿易港として作られた「Nordproven(デンマーク語で「北の約束」という意味)」の町は、1959年にグリーンランド語で「平原」という意味を持つナーサクとして再組織された。
現在では1700人が暮らし、周囲の居留地には370人の人々が羊牧場などをしながら生活している。
ナーサクはグリーンランド唯一の屠殺場でもある。
グリーンランドで最も古い毛皮商Eskimo Pels社はこの町にあり、会社はアザラシの加工製品を製造販売している。その他にこの町の経済は魚の加工場、羊牧場、そして観光業から成り立っている。
町が氷原に近いため、港の面する大河にはたくさんの氷山が流れ込み、観光ボートが出航する港として適しているのである。
またこの街の近くの谷には希少な鉱石が集中しており、地質学界では黄金卿として知られている。
第二次世界大戦
△ アメリカ空軍基地の位置
第二次世界大戦において、1940年にデンマークがドイツに占領された時、デンマークはアメリカと「デンマークのグリーンランドの統治権は保護するものの、戦争期間中はアメリカがグリーンランドへ経済支援を行い統治する」と取り決めを行った。
翌1941年にアメリカはグリーンランドの各地に大西洋を護衛するための空軍基地を建設する。
そこでは同時に採掘作業も行われ、氷晶石などの鉱石の販売増加による収入は島に駐留するアメリカ軍の軍資金として使用された。
第二次世界大戦後もしばらくデンマークはアメリカとNATO加盟国との協力体制によるグリーンランドの外交政策を続けるが、1951年に正式にグリーンランドはデンマークに返還された。
しかしアメリカは島の北部に巨大なテューレ空軍基地の建設許可を与えられ、東グリーンランドのKulusukと西グリーンランドのSondraStromフィヨルドの2基地を引き続き統治した。
今日ではテューレ空軍基地だけがアメリカの指揮下にあり、他の空港はグリーンランド政府により管理され、Kangerlussuaq(カンガルースアク)やNarsarsuaq(ナサスアク)はグリーンランドの国際空港として利用されている。
軍事基地として作られた主な都市
- Kangerlussuaq(カンガルースアク)
△ カンガルースアク空港
△ 上空から見た大地と氷原の境- Narsarsuaq(ナサスアク)
△ ナサスアク空港
カンガルースアクはかつてアメリカ軍の基地「Bluie West 8(通称BW8)」として1941年に作られた。
「長いフィヨルド」という意味を持つカンガルースアクは、その名が示す通り160kmにも及ぶフィヨルドの先端に位置している。
世界大戦終戦後もアメリカ軍による統治が続いたが、技術の進歩や時代の流れなどから徐々に基地の必要性が薄れ、1990年代にグリーンランド政府に返還された。
今日ではNarsarsuaq(ナサスアク)空港と並んで、国際線が到着するグリーンランドの重要な空の玄関口となっており、600人の住民が暮らしている。
周囲には動物が暮らすに快適な環境が整っており、空港から数km離れるだけでジャコウ牛の群れに遭遇することができる。
このジャコウ牛は以前、北東グリーンランドのIttoqqortoorniitからこの地域に27頭だけ連れてこられた。そしてこのカンガルースアクの好環境下でその数は爆発的に増え、現在では約5,000頭が生息しているとされている。
さらに空港から東へ25kmほど行くと巨大な氷原に辿り着く。
カンガルースアクはグリーンランドの中で氷原までの道が続いている唯一の町でもある。
1941年にアメリカ軍の基地「Bluie West 1(通称BW1)」として建設されたナサスアクは、グリーンランド語で「大平原」という意味を持つ。
その名の示す通り、フィヨルドの裾野に広がる広い平野を利用してこのグリーンランドの国際空港は作られており、現在では南グリーンランドの空の玄関口として利用されている。
空港の周辺にはホテル、ユース、食品雑貨店、カフェ、診療所などがあり、約160人が暮らしている。
ちなみに現在グリーンランドへの国際便はデンマークとアイスランド、カナダの3国からの便だけである。/p>
デンマーク領グリーンランド
△ グリーンランドのBarの様子
△ 地方自治体(コミューネ)の区分け
△ ロイヤル・グリーンランド社
△ グリーンランドの集合住宅
世界大戦終了後の1950年、グリーンランド政府は国際的に開かれた国になるため、経済的投資支援を要求する報告書を世界に向けて発行した。
報告書ではグリーンランドの管理はLandsradと呼ばれる国の議会が担当し、経済面ではロイヤル・グリーンランド貿易機関の持つ独占権を国に吸収されることが提唱されていた。
1952年にLandsrad議会はグリーンランドの発展のためにはデンマークの一部として協力体制を築くということが不可欠であるという新しい国家成立案を提出する。
この提案は1953年にデンマークにおいて国民投票で可決され、デンマークの国会に正式にグリーンランド代表者の2議席が新設された。
国の経済市場は個人投資家にも開かれ、国家構成が見直され、医療福祉サービスや社会保証サービスなどが本格的に開始された。
1960年代になると、グリーンランドの地下資源(油田や天然ガス)に注目が集まり、デンマークやアメリカ、カナダなどは土地整備や総合的な支援との交渉でそれぞれ掘削権をる。その結果、現地の暮らしは向上し、定住者も増えていった。
しかしデンマークやアメリカ、カナダの介入により生活様式や食生活が激変したことで、グリーンランドではそれまではなかった成人病患者が急増する。
特にこの時代に初めて国に持ち込まれたアルコールは、アルコール依存症に陥るグリーンランド住民を急増させ、殺人や自殺などが多発した。
そのためグリーンランド議会はアルコール販売に対して本数や販売時間などの厳しい規制を設けた。
当時ほどの厳しさはないが、現在でもアルコールの販売規制は続いている。
1964年にグリーンランド議会はデンマーク国会での認証を受け、10カ年の国土開発計画を盛り込んだ新しい報告書を発行する。
その計画の中でも重要視された項目は、グリーンランドで生まれた人間はデンマークで生まれた人間と同等な社会保証と労働賃金を得ることが出来るというものだった。
これは10年以内に一般の経済レベルまでグリーンランドを開発させるということが目的だった。
しかし計画は失敗し、グリーンランド人とデンマーク人との待遇や貧富の差は明確に現れ、多くの反発を引き起こすことになる。
この出生地による差別問題は、1987年にグリーンランド議会が大改革を行なうまで続いた。
1967年以降、グリーンランドでは民主主義が立ち上がり、Landsrad議会ではグリーンランド独自の首相を選び出すようになる。
1973年、グリーンランドとデンマークの間の関係の見直しが提唱され、3年後にデンマーク議会でグリーンランドの内政自治法が承認された。
これにより地方独自での問題解決や租税収入の出来る地方自治体(コミューネ)が設定され、現在の18のコミューネの元が作られた。
1979年には国営企業だったロイヤル・グリーンランド貿易機関が分割および民営化され、魚介類製品部門がロイヤル・グリーンランド社となり、1990年には魚介類加工販売の株式会社となった。
現在ロイヤル・グリーンランド社では約2500人の従業員がグリーンランド、デンマーク、ドイツの工場や漁船のほか、アメリカ、英国、フランス、イタリア、日本の販売事務所で働いている。
ロイヤル・グリーンランド社が扱う主な製品は、北極海域で採れるエビ、深海エビ、ヒラメなどを加工した、冷凍エビ、白身魚、むきエビ、薫製食品などで、冷凍エビの供給企業としては世界最大の規模を誇っている。
しかも日本での甘エビのほとんどはこの北海産で、そのうち25%はロイヤル・グリーンランド社が供給している。
また、グリーンランドで加工されている「甘エビ」のほとんどが日本へ輸出されている。
1964年の10カ年国土開発計画には都市コミュニティの開発も重要項目にあげられていた。
国や地方自治体はそれまで散らばっていた居留地の人々を、それぞれの自治体にある大きな町に集め、主要な町には多くの集合住宅が建設されていった。
1901年に196あった居留地は現在では半分以下の85になっている。
また、1901年には主要都市(植民地)の居住率は約20%で、残りの80%は郊外や小さな居留地に住んでいたが、現在では83%の国民が主要都市に暮らし、居留地に暮らす人々の割合は17%になっている。
これにより社会保証サービスや医療や教育、交通整備などの都市や生活の機能は向上したが、グリーンランド経済はこの集中居住では悪化をしていく。
この住民の集中移住は結果的に都市周辺の資源を減らし、また気候の大きな変化も伴って漁獲量の減った魚工場などの収入が減ったからである。
そのため国は1970年代に新たな財源の確保として鉱物や石油などの資源開発に乗り出す。
同時に1970年代のデンマークのヨーロッパ共同体(EC)への加盟を巡る一連の動きもグリーンランドの経済に影響を及ぼす。
グリーンランドでは大多数がヨーロッパ市場とは別に国家を形成していくことを望んだにも関わらず、議会はECへの加盟を決めたデンマークの国民投票の結果に従った。
そして1973年のデンマークのEC加盟とともに、ECでの漁船操業と漁獲高に関する規定がデンマークやグリーンランドに適用されるが、グリーンランド国民はこれに強く反発した。
その議論は国民の大きな関心ごととなり、1985年にグリーンランドはECから離脱する。
また、1985年にはグリーンランドに新しい独自の国旗が誕生する。
この国旗はグリーンランドの芸術家Thue Christianによってデザインされたもので北極圏に登る朝日を表現し、赤と白の組み合わせはデンマーク国旗から踏襲している。
その後ヨーロッパ諸国がECからEUとなり、デンマーク本国は引き続き加盟国となるが、グリーンランドはEUに加盟していない。
現在でもグリーンランドは外交的政治をデンマークに依存しているが、内政面ではデンマークと平等の政治関係を築いている。
そして今日、グリーンランドは約55,000人の人々が暮らす国際的な一国家としての立場をきちんと確立しているのである。
結論
このようにアジアの流れを組むイヌイット文明とバイキング時代から続くヨーロッパ文明とが組み合わさり、さらに戦争などによる略奪や破壊も行われずに形成されていったグリーンランドの歴史や建築文化の形成は、非常に興味深いものである。
さらに戦後のデンマーク政府との大規模な経済協力は、住民達の生活やライフスタイル、都市構成、コミュニティのあり方をも大きく変化させた。
このように他の文明の介入による外的な変化や、生活の変化による内的な様々な問題を見ることが出来、また極地環境での生活様式を知る上でも、このグリーンランドの研究は貴重な題材である。
日本におけるコミュニティのあり方を検討していく上でも、比較対象として今後も是非研究を進めていきたい。