はじめに
北欧・デンマークは近年、環境・デザイン・福祉・教育など様々な分野での高い水準が注目をされている。
国土43,094u(自治領のグリーンランド、フェロー諸島を除く)、人口541万1,400人(2005年1月)という小国ではあるが、ヨーロッパの主要都市であるコペンハーゲンを首都に持つ。
この首都・コペンハーゲンの都市形成は、デンマークの持つライフスタイルやデザイン理念、福祉、そしてエコ(エコロジー&エコノミー)などに対して深い影響を与えている。
本研究はデンマークの都市計画や建築を通し、都市再生や環境共生のための新しい提案を学ぶことを目的としている。
コペンハーゲンの起源
△ 写真1 Hafn時代のコペンハーゲン
△ 写真2 1377年頃のコペンハーゲン
△ 写真3 1500年頃のコペンハーゲン
△ 写真4 1500年頃のコペンハーゲン
コペンハーゲンは、西暦800年頃には小さな漁村として現在の中心部の近くにあったとされている。
この地域に関する最初の記録は、デンマークの歴史家が1026年に残した記述にある。さらに12世紀の終わり頃から、ローマ法王への書簡にラテン語で『港』を意味する“Hafnia”という名が使われており、これはデンマーク語で”Hafn”と呼ばれていたコペンハーゲンを指しているとされている。
13世紀にはこの地を示す呼称として現在の名の原型である“Køpmannæhafn(商人の港)”の名が使われており、ここが交易の場として栄えていたことを示している。
ちなみに“Cpenhagen”のデンマーク語表記は“København”と綴り、”køben”は『商人』、“havn”は『港』という意味である。
中世初期には、のちにコペンハーゲンとなる当時の小さな漁村は貴族によって支配されていた。
そして12世紀中頃になると、現在のドイツの北東部に住んでいたヴェンド族との戦いにおける重要な軍事基地として、城壁に囲まれた港町へと変貌していく。
その後、この地域は当時シェラン島を管轄していたロスキレ教会区の統治下におかれるが、16世紀初頭の革命で教会が権力を剥奪されると、当時のデンマークの王によってコペンハーゲンの地が当時のデンマーク連合王国(現在のデンマークとノルウェー、スウェーデンの南部)の首都と定められる。
当時のデンマークはØresund(デンマークとスウェーデンの間を流れる海峡)の東の地域一帯(現在のスウェーデン南部)を所有しており、首都・コペンハーゲンはこのデンマーク連合王国の中心という好立地に位置していた。
この新たな王国の首都となったコペンハーゲンの街の基礎構造は、この当時から現在に至るまで変わることがなく、現在でも多くの人で賑わいをみせるアマー広場(Amager torv)は当時から街の中心広場として賑わっていた。
偉大な建築王・クリスチャン4世
△ 写真5 クリスチャン4世王
△ 写真6 Børsen(証券取引所)
△ 写真7 1611年のコペンハーゲンの様子
△ 写真8 ニュボダーの集合住宅
△ 写真9 1674年のコペンハーゲン
1588年、前王の死去に伴い、当時まだ11歳のクリスチャン4世王が王位を継承する。
ただしクリスチャン4世王が18歳になるまでは、4人の貴族がデンマークの政治を取り仕切り、その間クリスチャン4世王は政治学を始めとした王になるための様々な教育を受けることになる。その中には当時のオランダから招かれた講師による建築学の教育も含まれていた。
クリスチャン4世王が成人し政治を取り仕切るようになると、彼は政治だけではなく都市計画においてもその手腕を発揮していった。
クリスチャン4世王の都市計画により、コペンハーゲンの街は城壁が拡張され、城壁の内側にはいくつもの美しさをもつ壮大な建築が建設されていった。
Rosenborg(ローゼンボー宮殿)、Børsen(証券取引所)、Rundetårn(ランドタワー)などはその当時の彼の作品であり、現在でも当時の姿のままコペンハーゲンの街の中心で見ることが出来る。
また、クリスチャン4世王の建築様式は街の他の建物にも普及し、17世紀のコペンハーゲンの絵からもその特徴的な美しい街並を見る事が出来る。
さらにクリスチャン4世王は現在の王立図書館(通称ブラックダイヤモンド)のある地に海軍の港を建設し、港の周りに貯蔵庫や兵器庫をつくり、屈強な総合海軍基地を作り上げる。
そしてこの海軍の住まいとして、ニュボダー地域に集合住宅を建設する。
このニュボダー集合住宅はデンマークで最初の集合住宅とされ、その計画案はその後のデンマークの集合住宅建設へ大きな影響を与えていくことになる。
このようにしてコペンハーゲンの街は偉大な建築王・クリスチャン4世によって強大に拡張されていき、17世紀の終わりには屈強な湾岸要塞都市と成長した。
スウェーデンとの争い
△ 写真10 1659年のコペンハーゲンの攻防
△ 写真11 1677年のスウェーデンとの戦い
クリスチャン4世王の時代には、すでにスウェーデンは連合を離れ、デンマークと領土の奪い合いなど争いを繰り広げていた。
ちょうどその頃、隣国ドイツでの宗教戦争にプロテスタント側で加担していたデンマークは、その争いに破れたことにより多くの資金と戦力を失うことになる。
この敗戦で当時のデンマークの国力は弱まり、スウェーデンとの戦争にも破れ、ついにデンマークはスウェーデン南部を含む多くの領土を失う。これにより、コペンハーゲンの街は王国の中心地という好立地から、海峡を挟んで隣国スウェーデンと睨み合う国境沿いに位置する都市となったのである。
そのため、より屈強な防御がコペンハーゲンの街には求められ、街は要塞都市としての整備をより強めていくことになった。
クリスチャン4世王が亡くなった1648年には、デンマークはノルウェーの大部分とバルト海付近の大部分を失っていた。
一方でスウェーデンはスカンジナビアの中でも最も強大な国となっており、スウェーデン軍はこの時代のデンマークとの闘いには全て勝利していた。
しかしクリスチャン4世王の都市計画により屈強な巨大要塞都市と化していたコペンハーゲンだけは攻め落とすことが出来なかった。
要塞都市コペンハーゲンで体制を立て直したデンマーク軍はその後戦力を盛りかえし、スウェーデンから多くの領土を奪い返します。
しかしスウェーデン南部だけは取り戻すことができず、1720年の両国による最後の戦争以降、デンマークとスウェーデンの間に戦争はなく、コペンハーゲンは当時と変わらずにスウェーデンとの国境沿いに位置する首都として、現在に至っているのである。
大火災と都市の再建
△ 写真12 初期のクリスチャンボー城
△ 写真13 1863年のクリスチャンハウン地域
1728年にコペンハーゲンは大火災に見舞われる。後に『第一次コペンハーゲン大火』と呼ばれるこの大火災で、コペンハーゲンの街では多くの半木造の建物が焼きつくされた。
それ以降、コペンハーゲンの建造物には火事を防止するための規制が敷かれ、火災以前は半木造であった街の建物は、火災後は漆喰とレンガのファサードを持つ建築様式に変えられていった。
当時の王族が拠点としていたクリスチャンボー城は、当時のヨーロッパでも1〜2を争う巨大で荘厳なバロック様式の宮殿だったが、建設後わずか50年で出火による火事で焼失してしまう。
その後設計者の建築家Nikolai EigtvedによってFrederiksstaden地域に新しいクリスチャンボー城と、貴族や商人の住まいが計画される。そのエレガントなロココ調の美しいファサードは、コペンハーゲンの街の新しい特徴となっていった。
18世紀中頃、コペンハーゲンの港は東欧などとの貿易が盛んになり、運河を挟んだクリスチャンハウン地域では大きな開発が行われ、コペンハーゲンの街はさらに拡張されていった。
芸術アカデミーの創立
△ 写真14 1797年のコペンハーゲンの港の様子
1754年にクリスチャンボー宮殿にデンマーク王立芸術アカデミーが創立され、初代校長にはフランスから招かれた建築家Nicolas-Henri Jardinが就任した。
これによりデンマークでは当時のヨーロッパ諸国での建築の主流となっていた古典主義をいち早く取り入れ、多くの古典主義形式の作品が街中に作られていった。
1788年に当時の王によって農民拘束法が廃止されたことにより、デンマーク各地では多くの農民が自分達の土地を所有するようになる。自由を与えられた農民たちの生活は向上し、より働いて利益をあげていったことで、デンマークの経済自体が向上していった。
さらにデンマークは植民地との交易などでも大きな利益を上げ、コペンハーゲンの港は大いに賑わっていった。
現存するコペンハーゲンの大きな建造物は、国が最も豊であったこの時期に建てられたものが多い。
第二次大火と都市の復興
△ 写真15 第二次コペンハーゲン大火
△ 写真16 C.F.Hansen設計によるVor Frue Kirke
△ 写真17 1807年の大英帝国によるコペンハーゲン襲撃
△ 写真18 1813年のコペンハーゲン
1795年にコペンハーゲンは再び大火災に見舞われる。『第二次コペンハーゲン大火』である。
そしてこの火災からの復興は、古典主義の長と呼ばれる建築家C.F.Hansenの指揮で行われ、コペンハーゲンの街は古典主義の新たな装いを施していくことになる。
この頃、ヨーロッパではナポレオン戦争が勃発し、北ヨーロッパにまで影響が及んでくるが、デンマークは中立の立場で戦争を静視していた。
これに対し大英帝国はデンマークにフランスを攻めるように言及するが、デンマークはその忠告には従わなかった。そのため1807年、大英帝国海軍が大艦隊を率いてコペンハーゲンを攻め、大砲やロケット弾を使用し街を爆撃した。
この爆撃により多くの家々が破壊され、多くの市民の命が奪われた。
その惨状にデンマークは降伏し、代償として大英帝国軍はデンマークの戦艦すべてをイギリスへと持ち帰った。 かつては北海で栄華を誇ったデンマーク艦隊も、この敗戦により崩壊し、その後デンマークが巨大海軍をもつことは二度となかった。
1815年にナポレオン軍が戦いに破れ、ナポレオン戦争が終結すると、デンマークはナポレオン軍を助けた罪で罰せられ、ノルウェーの領土を失うことになる。
さらにデンマークは大恐慌に陥り、すべての銀行が破産し国の経済は破綻する。
この状況下で、大英帝国軍に破壊されたコペンハーゲンの街の再建は非常に厳しい予算の下で行なわれ、黒くなった廃虚のレンガなど多くの廃材が再利用された。
この廃材を再利用したC.F.Hansenの建物は、慰霊碑的なイメージで建てられていき、その建設と共にデンマークは目まぐるしい復興を遂げていくことになる。
1815年以降のデンマークでは多くの素晴らしい芸術家たちが活躍するようになり、この時代は『黄金時代』と呼ばれるようになる。
世界的に有名な作家 H.C.アナセン(アンデルセン)や哲学者N.F.S.グルンドヴィ、ソーレン・キルケゴールもこの時代の人物であり、彼らはコペンハーゲンの街の復興と共に自らの芸術性を高めていった。
城壁からの開放
△ 写真19 初期のコペンハーゲン駅
△ 写真20 民主主義を求める1848年のコペンハーゲン住民のデモの様子
△ 写真21 19世紀のコペンハーゲン
△ 写真22 1857年の西門の様子
△ 写真23 19世紀のTIVOLI遊園地
1847年、コペンハーゲン-ロスキレ間にデンマークで最初の蒸気機関車が開通する。
さらに翌1848年には絶対君主制が廃止され、1849年6月5日に新憲法が完成し、デンマークは民主主義へと生まれ変わった。
この時、クリスチャン4世王の時代から城壁に囲まれ続けたコペンハーゲンの街の規模は限界に達していた。
そして街の拡大のために1852年についに城門は開かれ、完全に城壁が取り除かれた1856年にコペンハーゲンの街は要塞都市としての役割を終えたのである。
この城壁が取り壊される9年前の1843年、城壁の外にある軍用地域の一角に、コペンハーゲン市民の娯楽施設としてTIVOLI遊園地が設けられた。
コペンハーゲン市民の憩いの場となったこの娯楽施設は、その後城壁が取り払われて街が拡大する中でも取り壊されることはなく、160年以上経った現在でもコペンハーゲン市民の憩いの場として賑わっている。
都市の拡大
△ 写真24 カールスバービール工場
△ 写真25 1915年のコペンハーゲンの様子
クリスチャン4世王からコペンハーゲンを取り囲んでいた城壁からの解放は、都市の拡大だけでなく建築思想の発展にも繋がっていく。
1846年に、J.C.Jacobsenのビール醸造所は良質の水を持っていたValby地域へ工場を移動させた。それが現在のカールスバービール工場である。
この贅沢で美しい工場の建物は産業化時代の幕開けの象徴となった。
やがて新しい工場が次々にコペンハーゲン郊外に作られていく。そしてヨーロッパ各地から多くの若者が仕事を求めてコペンハーゲンへと移住し、その人口は爆発的に増えていく。
1870年のコペンハーゲンの人口は約180,000人だったが、1901年には約400,000人にまで膨れ上がる。そして人口の増加と共に、デンマークは大工業国として成長していった。
労働者の移動や工場で作られた商品を他の地域へ運ぶため、鉄道や海運が発達していき、さらに郊外には労働者たちの住まいとして新しい住宅地や小さな集合住宅がたくさん作られていく。
そのため投資家たちが郊外の広い土地を買い漁り、そこを住宅地として分譲し始めたためコペンハーゲン周辺の地価は急騰し、すべてのものが急速に変わっていった。
建物はできるだけ早く安く作るのがよいとされ、住宅建設はお金を稼ぐ最良のビジネスだった。
そして城壁の解放からわずか半世紀の間に、コペンハーゲンの旧市街地周辺は建物で埋め尽くされていったのである。
巨大化する首都と住宅バブルの崩壊
△ 写真26 コペンハーゲン中央駅
19世紀に建築の新しい様式として用いられた国際的ロマン主義は、コペンハーゲン中央駅などに用いられ、今でもこの建物はコペンハーゲンを象徴する建物のひとつとなっている。
1900年を前後して、増え続けるコペンハーゲンの人口に対応するためコペンハーゲンコムーネ(市)は中心街を囲んでいた地域を合併吸収し、それまでの3倍の大きさとなった。
この増加する人口に対しデンマーク政府は都市拡張計画を進めていくが、建設と住民の生活の質の釣り合いがとれなくなり、1907年には約10,000戸の空室のアパートがあったものの、貧しい家族は1つの部屋に4人以上で暮らしているといった状況にあった。
そして急速に膨れ上がった住宅市場はついに崩壊する。この住宅市場の崩壊をきっかけに銀行は倒産し、多くの契約者たちが破産し、住宅の建設は完全にストップした。
その結果失業者はさらに増え、コペンハーゲンの住宅不足はより深刻になっていったのである。
ライフスタイルの確立
1910年代になると国民の住宅に対する考えは、通勤や買い物に便利な都心の賃貸アパートメントと郊外の庭付き一戸建てを望むかの二手に分かれていく。
この郊外の住宅建設に対して、1907年にデンマーク建築家協は“デザイン援助サービス”を開始する。
これは建主が建築家から低料金で自分達の住居に対してアドバイスを受けられるサービスである。
このサービスの目的は地方や郊外の建物に少しでも芸術的な要素を持たせたいというものであり、この試みは成功し非常に人気の高い芸術的な運動となっていった。
現在のデンマークの一般家庭に自然とデザインが溶け込んでいるライフスタイルの基礎は、この時期に作られたのである。
第一次世界大戦終戦後にはデンマーク社会も落ち着き始め、安定した時代を迎える。国民すべてに仕事が与えられ、多くの家庭に電話、車、電燈などの生活を向上させる文明機器が普及していった。
戦争と産業化
△ 写真27 フィンガープラン
第二次世界大戦において、デンマークは中立を保つが、1940年にドイツ軍は突如デンマークに攻め込み、以後5年間にわたりデンマークはドイツの支配下におかれ、この支配下の時期は芸術・文化、そして社会のすべてにおいて独自の活動を停止させられる。
しかし終戦後、コペンハーゲンは再び急成長を遂げる。
産業の復興・発展と共に人口は急増し、その住宅不足を避けるために政府は早急な対応に迫られる。そして1947年、建築家Peter Bredsdroffの指揮により急成長するコペンハーゲンの新都市計画案が発表された。
それは中心街から5本の指のように環状線を延ばし、その沿線に沿って住宅地を建設していくという提案で、この計画はすぐに“フィンガープラン”として世界中に知られるようになった。
また住宅開発だけでなく、同時にコペンハーゲン周辺地域に質の良い森林地帯を作りだす計画も進められ、現在ではコペンハーゲン周辺には約1,500haの自然保護森林と牧草地が整備されている。
高層化への懸念と討論
△ 写真28 Bellahøj(ベラホイ)高層住宅
△ 写真29 ヨーン・ウォッツォンのフレデンスボー テラサー集合住宅(1962-1963)
△ 写真30 Høje Gladsaxe高層住宅
△ 写真31 Vandkunsten設計のティンゴーデン集合住宅
“フィンガープラン”が進められていく中で、デンマークは住宅市場を活性化させるため産業化と量産化を持ち込み高層住宅建設を推進していく。その最初のプロジェクトが、デンマーク初の高層住宅であるBellahøj(ベラホイ)高層住宅計画である。
しかしデンマークの建築家の何人かはこの“建築の高層化”に異を唱える。その中の一人が、シドニーのオペラハウスの設計で世界的に知られるヨーン・ウォッツォンで、彼は独自の思想を反影した低層住宅作品を発表する。
同じ時期に、デンマーク郊外にHøje Gladsaxe高層住宅が合理的高層住宅の実例として建設される。
この高低2つのプロジェクトは建築家や一般市民の間に高層住宅か低層住宅かの議論を巻き起こす。
1971年に国立建物研究所が実施した低層住宅のコンペティションで、当時新進気鋭の建築設計集団であったVandkunstenの提案が勝利する。その大胆な提案とデザインは、その後のデンマーク住宅開発に大きな影響を与え、やがてデンマークの人々は低層住宅こそが望ましい住まいだと選択をしていく。
そして1973年に建設されたBrøndby Strand住宅が、当時では最後の高層住宅となったのである。
高度経済成長
△ 写真32 郊外に延びる高速道路
△ 写真33 クリスチャニアの入口
△ 写真34 コペンハーゲンビジネススクール
1972年、デンマークはECに加わる。これによりデンマークは他のヨーロッパ諸国との貿易が容易になり、国の経済は発展していった。
この頃になると郊外の一戸建て住宅に住まい、都心に車で通勤する人々が増え始め、そのための交通網が急激に発達していく。しかしそれは同時に交通災害も多く引き起した。
これらの急激な時代の変化に反抗した人々が、1971年にクリスチャンハウンに作られた自治区・クリスチャニアを筆頭に、デンマークのあちこちに環境共生を目指したエコビレッジを作り、独自のライフスタイルを追求していった。
この頃から、デンマークでは働き手が不足しはじめ、多くの既婚女性が外に出て働くようになる女性の社会進出が始まる。
しかしそれでも労働者不足は解決せず、市場は中近東の国々から外国人労働者を雇うようになり、その数はどんどん増えていった。
70年代には大規模建築にも様々な試みがなされていく。
Herlevに建てられたコペンハーゲン国立病院とHvidovreに建てられたコペンハーゲンコミューネ病院は、この時期に相反する2極の思想によって計画さてた。120mの高さを持つ彫刻のようなファサードをもつ高層のコペンハーゲン国立病院に対し、コペンハーゲンコミューネ病院は不規則な形を組み合わせた低層の複合的な建物で近代主義の特徴を見せている。
学園都市計画としてLyngbyに建設されたデンマーク工科大学とその周辺地域や、ブルータリズムの特徴を持つNørrebroのPanum施設などもこの時代に計画されたものだ。
80年代後半にはHenning Larsen設計事務所によりDalgas Have住宅開発とフレデリクスバーグのコペンハーゲンビジネススクールが設計され、国内外の注目を集めた。
都市再生と新都市開発
△ 写真35 王立芸術美術館
△ 写真36 コペンハーゲンのメトロ
△ 写真37 Øresund大橋
△ 写真38 Ørestaden地域の集合住宅
△ 写真39 建設中のデンマーク放送局
△ 写真40 建設中のデンマーク放送局の看板
1993年に欧州連合EUが誕生し、1996年にEU諸国は共通の通貨(ユーロ)を持つことを提案するが、デンマーク国民は国民投票でEUに加盟はするものの、自国の国旗と自国の言葉、自国の通貨を使用することを選択した。
この1996年以降、大コペンハーゲン圏域では政府の指揮の下で様々な都市再生プランが実行に移され、郊外に大規模な住宅地開発が行われていく。
20世紀後半、近代化が進む中で中世からの街並を残すコペンハーゲンの都市の建築的な変化対応は重要な課題であった。
伝統ある街並景観を保ちつつ新しい建物をフィットさせていく、いわゆる都市再生は、常にヨーロッパの建築家たちの関心と議論の的になった。
1996年、デンマークはコペンハーゲン市庁舎広場の再生(1998年完成)や王立芸術美術館の拡張(1999年完成)、王立図書館の新設などの大規模施設の建設を次々と発表し、ヨーロッパの国々に刺激を与える。
また、中心市街地のウォーターフロント開発を進め、Frihavn地域などは高級な住宅街と商業地域に変貌した。
90年代の後半には、深刻化する都心部の交通問題の解決と、空港への新たな交通網として地下鉄(メトロ)建設の工事が始まる。2000年に第一区間が開通したこの事業は2005年現在も進行中で、2007年にはコペンハーゲンの中心街とKastrup国際空港を結ぶことになる。
さらに2000年に完成したデンマークとスウェーデンを結ぶØresund大橋により、コペンハーゲンはかつてない大きな変化をもたらされる。
1994年にこのØresund大橋とコペンハーゲン中心地との間に広がるØrestaden地域の新都市開発計画が持ち上がり、国際コンペが実施された。
コンペでは、メトロラインを軸とし、運河や広い並木道で形成されていくフィンランドの建築家の提案が勝利した。
2005年現在も建設中であるØrestaden地域はかなりの大規模新都市開発であり、世界に向けた環境共生のための様々な提案が組み込まれている。
中でも新築されるデンマーク放送局(DR)の施設群には様々な環境に対する取り組みが盛り込まれている。
中でも新築されるデンマーク放送局(DR)の施設群には様々な環境に対する取り組みが盛り込まれている。
会社のオフィスから職員の住宅まですべてを有するDRの施設は、建物内の冷房を地下水の汲み上げと外気の利用による自然資源冷却システムの採用でまかなうことになっており、さらに2重表装構造やデンマーク最大の1,200uの太陽熱パネルなどが利用されることになっている。
コペンハーゲンの環境プロジェクト
- ・コペンハーゲンの海上風車発電
△ 写真41 コペンハーゲン沖合の水上風車- ・コペンハーゲンの太陽熱エネルギー利用
△ 写真42 屋根の上の太陽光パネル- ・海水浴場プールと運河の水質改善
△ 写真43 Islands Bygge海浜公園のプール- ・TIVOLIの環境対策
△ 写真44 TIVOLI遊園地のイルミネーション- ・デンマークの自転車
△ 写真45 コペンハーゲンの自転車乗り
時代と共に変化成長を続けてきたコペンハーゲンの都市の形成は、現在も多くの議論がなされて進められているが、その中でも現代では特に環境共生の重要性が唱えられ、世界に先立つ様々な試みが行われている。
最後のまとめとして、その中からいくつかのプロジェクトを紹介しておく。
2001年にコペンハーゲンの沖合いに建設された20機の巨大な風力発電用の水上風車は、トータルで40MWの電力を作り出すことができる。この風車群は一般の消費者にその所有を分譲販売した初めての例だ。
首都の電力消費の4%を提供しているこの風車群の共同所有者は約8,500人のコペンハーゲン住民である。
このプロジェクトは風力発電協会と、電力供給会社、そして国や政治家たちの様々な協力で実現した。
このプロジェクトは自然エネルギーの活用という環境対応の面も持ちながら、一方では所有者の投資という経済的な面も持ち合わせている。
この風車群の共同所有者たちには、その出資金に応じて6〜10%の配当が支払われることになっている。
このプロジェクトは世界の電力自由化市場にとって風力エネルギーを位置付ける革新的な役割を果たしている。
緯度としてはサハリンの少し北に位置するデンマークでは、日照利用よりも風利用の方が有効ではあるが、デンマークでは風力発電よりも太陽エネルギー利用のほうが先に開発が進んできた。
現在、コペンハーゲンの西のValbyの郊外ではそのエネルギー供給の10〜15%を太陽光から得ている。
トータルで100,000〜150,000uの太陽エネルギー装置は、2028年までにこの地域のあちこちに設置される予定だ。
デンマークを代表するものとなるであろうこのプロジェクトは、現在も住民たちとの協議が続いている。
2003年にはコペンハーゲン電力が太陽エネルギー装置をエコ(エコロジー&エコノミー)意識のあるコペンハーゲン住民に販売した。
これには装置の設置後に電力を買い取るという交換条件で、住民の家計に負担をあまりかけない仕組みになっている。
2002年7月に、コペンハーゲンの街に新しい海水浴場、Islands Bygge海浜公園がオープンした。
これはコペンハーゲンの中心を流れる運河の水をそのまま利用している。
しかしこれは公害による水質汚染のために運河での水浴びが禁止された1950年代には考えられないことだった。
長年に渡る水質改善の結果、コペンハーゲンは都市の中心部に世界でも珍しい人工ビーチを誕生させたのである。
また旧城壁の外堀だった運河には、2002年に約50,000匹のマスの稚魚が流された。雑魚は小さな生き物や藻などを餌とし、池をきれいにすると言われている。
その後も毎年約50,000匹のマスの稚魚が放たれ、現在はそれらのマスが成長し、生態系が安定してきている。
コペンハーゲンはこの事業に対し、約12,300,000krの事業費を投じている。
160年の歴史を持つコペンハーゲンの憩いの場TIVOLI。この遊園地の有名な電気のイルミネーションは110,000個のライトを使用しており、1日に約17,000KWの電力を消費している。
しかしTIVOLIは実は世界で最初にエコ環境システムを取り入れた遊園地であり、この環境配慮は世界的に認められ表彰されていることはあまり知られてはいない。
例えば太陽エネルギーの利用だけで乗り物を動かしたりたり、園内の環境やリサイクル促進にも力を入れている。
そしてデンマークの暗く長い冬には、イルミネーション等電気に使われる電力消費を抑えるため、冬の期間は閉園するのである。
自転車はデンマークの生活にはなくてはならない交通手段であり、デンマークでは総国民の9割におよぶ約450万台の自転車が登録されている。
国民一人当たりの一年間の自転車走行距離は400kmであり、コペンハーゲンだけでも350kmもの自転車道が整備されている。
この自転車道はデンマーク国内の隅々にまで整備され、容易に国中を自転車で旅することができる。
コペンハーゲンでは過去10年間に約3,500万kr(約6億3千万円)の大金を費やしてこの道の整備をした。
コペンハーゲンでは現在、交通の35%を自転車が占め、その約7割の自転車乗りは天候に限らず自転車を利用している。
参考文献
- 『København Arkitekt Guide』『Dansk Historie』『Milijøhistorie fra København』『Økologi i København』他