はじめに
本活動はこれまでの研究成果を基に、「コミュニティの新生」と「社会人(特に30〜50代の男性)を取り込むこと」を目的に立ち上げた多世代交流の実践活動である。
キーワードとなる「学び」を「農・食・自然」に設定し、首都圏と地方都市を繋ぐ新たなコミュニティ活動を開始した。
活動は3年目で「あしたのまち・くらしづくり活動賞 振興奨励賞」を受賞し、以下はその応募レポートである。
きっかけ
「小諸にアパートや農地を相続しましてね」
2008年秋、東京都杉並区に暮らす相続人のその一言から『こもなみ倶楽部』の活動は始まった。華やかにイメージする遺産相続とは異なり、アパートは2008年に起きたリーマンショックを引き金とするいわゆる「派遣切り」の影響で借主が退去して全室が空室になり、農地や山林は30年以上も管理を放棄されて荒れ放題。相続はしたものの、使い道に困っていた。
その話を聞いて興味を持った東京の有志数名は長野県小諸市を訪問し、相続したアパート、農地、山林を見学。
2009年1月には相続人と“遊子”数十名が訪問し、小諸市内の温泉旅館で風呂上がりの浴衣姿でお酒を酌み交わしながら、今後それら休眠資産を使って何が出来るかを深夜遅くまで話し合った。
その白熱した議論の中から、東京から出向いた都会の人間が地方の小諸で何かを行なっていくには、まずは地域の人たちの信用を得ていくことが重要だが、そのためには何か核となる行動が必要だろうと考えた。
そこで手始めにあの荒廃農地を再生してみたら、小諸の人にもその変化が目に見えやすいし、自分たちでも行なえることではないかと考え、2009年の春から月に1回程度小諸を訪問し、アパートに寝泊まりをしながら荒廃農地の再生に取り組み始めたのである。
このような都会と地方を繋ぐ活動は日本全国でも多く試みられている。しかし最初は盛り上がるものの大抵1〜2年で情熱が冷めたり仕事や生活環境の変化で自然消滅してしまう活動が多く、それが小諸やその周辺で将来立ち上がるであろう後輩の活動に影響を与えることは避けたいと考え、まず3年継続することを第一の目標に掲げた。
そこには、活動が長続きせず終息してしまうことで地元の人が「どうせこういうのは長続きしないんだよ」という前例を植え付けその後の協力に消極的になってしまうことを避けたり、内部では活動を率いる先輩が途中で投げ出すことなく続ける姿を後輩に示していくことで、未来の活動を担う若きリーダーを育てていく大人としての責任があるという、まちづくり活動への想いがあった。
当初は「小諸〜杉並ミートアンドマッチングプロジェクト」という名で始まった活動は、いつからか「こもろ」と「すぎなみ」を掛け合わせた「こもなみ」と呼ばれるようになり、きちんと責任ある活動を行なっていくために2009年の夏には事務局が構成され、月1回程度の会合を開いて活動を組み立てていく『こもなみ倶楽部』が誕生した。
1年目
小諸での1年目となる2009年は、とにかく荒廃農地の再生にかかった1年だった。当初は農地を覆う藪を刈り取れば畑として再生できるだろうという安易な考えだったが、取り組んでみると大地一面に張ったクズの根に大苦戦。
さらに棚田の中の整備がされていない農地のために、田植えの時期になると上層からの水が農地に染み出てきて雑草の成長を助け、夏には人の背丈を上回るまでに成長する状態だった。
クリスマスリーフや編み籠などに使われるクズの蔓も、30年以上放置をすると人の腕よりも太く成長し、草刈りと称した作業にはチェーンソーやつるはしが登場。
その様子は草刈りと言うよりも「開墾」と言う言葉がふさわしい状況だった。
あまりに先の見通しが立たないその状況に、まずは農地の半分を開拓し、そこで蕎麦を栽培することにした。
蕎麦は荒れ地でも育つと聞いたのと、地元の農業委員会が荒廃地対策として蕎麦の種を2年間は無償提供してくれると聞いたからである。
この年は、なんとか農地の半分を開墾し、蕎麦の種をまき、収穫し、製粉して蕎麦を打つ体験を行なった。
またこの年の夏から、小諸側のメンバーが月に1回程度、杉並区の商店街で産直品販売を開始し、東京側ではその販売の手伝いをするようになった。
普段東京から小諸へ行くといろいろと助けてくれる人たちに、東京では手伝いという形でお返しする体制ができた。
そして東京側の参加者は、販売する立場から、販売の難しさや販売する商品への知識を学ぶきっかけを得る体験に繋った。
2年目
2010年冬、近隣の方の好意で農地に重機が入った。
これで今年は草刈りに悩まされず、農地一面を利用することができると喜んで迎えた春、参加者が目にした農地は、整備されていない畔から決壊した水で泥沼と化していた。
こうして2年目はまず水路の整備から幕を開けた。
この農地は元は田んぼだったため、田んぼの構造を把握。農地にこれ以上水が入らないように畔沿いに膝下まである深い溝を100メートル以上も人力で掘り進め、水を側溝へ導いた。
そして乾いている部分で野菜と蕎麦を栽培し、夏にはわずかながら収穫を楽しむことができた。
また現地サポーターの手引きで田んぼや梅林の管理もすることになり、田植え・稲刈り・脱穀などの米作り体験や、梅の剪定から梅酒造りといった活動も行なった。
そして秋、我々の農地がある地域に、劇的な変化が起こる。それは我々の農地に隣接する耕作放棄地にも重機が入り、うっそうとした林が整地され、この地域に美しい棚田の風景が戻ってきたのである。
長い間、棚田の中心にあった相続人の農地と隣の農地は、耕作を放棄して以来その地域の景観を損ねてきた。それが我々の再生活動に刺激されたのかどうかはわからないが、隣の農地で10メートル以上に伸びきった放棄林が切り取られ、見晴らしのよい風景が復活し、棚田の下から望む景色の中に、耕作放棄地の木々や草で隠されていた浅間の山々が姿を現したのである。
これこそが活動の生み出した結果であり、最初は遠くから見ていた地域の方々と、気が付くと会話が生まれるようになっていた。
さらに3年目の継続に向けた課題を抱えていた時、『こもなみ倶楽部』の活動は2010年のトヨタ環境活動助成プログラムに採用され、関係者の士気が一気に高まった。
その年の暮、農地で収穫した蕎麦を自分たちで打って食べようと行なった蕎麦打ちの会場で、たまたま居合わせたご近所の方に活動の話をしたところ、重機や耕運機を使って整地をしてくれることになり、3年目の活動に大きな希望の光が差し込んだのである。
3年目
2011年、ついに活動は当初の目標であった3年継続を達成する見通しになった。冬から春にかけて農地には重機が入り、水路整備と農地の耕作が行なわれ、ついにあの耕作放棄地は立派な畑に姿を変えた。
3年前に背丈以上の草々に覆われた農地を前に途方に暮れていたあの頃に比べると、そのすがすがしい景色に一同感激。浅間山から吹き下ろされる風がより一層心地よい。
3年目を迎えるにあたり、より地元の人たちとの連携を強めていこうと、作業の始まる前の2月に、小諸市内の温泉旅館で地元の人を交えた討論会を設けた。
そこでは「助成金は今年限りで使い切るのではなく先々の活動に使えるものに投資する」、「自分たちで生産したものを自分たちで販売し、種代・苗代は自分たちで稼ぐ」など様々な意見と人間関係が構築され、3年目の計画が整った。
そして活動に必要な先々まで残るものとして、自動車を購入し、現地に常駐することにした。
これにより参加者は都心から車を出さなくとも高速バスや新幹線で好きな時に小諸へ行き、現地で行動ができるようになったのである。
多世代が集う場
この活動に参加した最年少は2歳、最高齢は76歳。
東京からはこれまで200人近い人が参加をし、小諸で関わった人たちを加えると関係者は400人を優に超える。
その活動の場には常に、子どもから20代、30代、40代、50代、60代、そして70代と、多世代の集う場が自然と生み出されている。
そして自然を教師にし、自然から学んでいるため、参加者の中での年功序列や上下関係は存在しない。
みな自然の前では平等の立場であるのも『こもなみ倶楽部』の特徴と言える。
これから
「うちの子が小諸に行くまで続けてください」
命を宿す大きなおなかを抱え、杉並での小諸の産直販売に顔を出した事務局員の奥方が、おなかをさすりながら販売をしている我々にそう言った。
都会に暮らすとなかなか触れられない自然から学ぶことのできる場所が、小諸に出来つつある。
2011年8月に杉並で誕生する予定のその新しい命が、いつか『こもなみ倶楽部』の活動に参加し、小諸の大自然の中で両親やその仲間たちと共に土や水、緑や風や太陽の光に触れ、そして自然の中で生きる生物や小諸の人々に触れられたら、それはまさに“小諸〜杉並ミートアンドマッチング”そのものである。
活動を始めた時に掲げた3年継続の目標が達成できた今、我々の次なる目標は、これから生まれてくる子どもたちに、自然から学び、人に触れ、なにより楽しむ場を残していくことにある。
この3年間、小諸〜杉並ミートアンドマッチングプロジェクトとして始まった『こもなみ倶楽部』は、相続した空室だらけのアパートの活用と、30年以上耕作放棄された農地の再生を通し、様々な出会いや経験を生み出してきた。そこで得た人間関係と体験は、例え『こもなみ倶楽部』の活動がこの場で終わりを迎えたとしても、それぞれの中にずっと残っていくものとなっている。
だが『こもなみ倶楽部』はまだ終わらない。これからも東京と小諸の間で、明日のまちや暮らしを豊かにするため、活動を続けていく。
そのために重要なことが何かを『こもなみ倶楽部』は知っている。それは「楽しむ」こと。楽しいから活動が続いていくのだ。
決して嬉しいこと、容易なことばかりではない。自然を相手にし、そして人の集まりである。時には自然からの厳しい試練や体を酷使するつらい作業もあり、また人間同士の意見の相違から思うように進まないこともある。でも、それらも全て楽しむことが、活動を継続させ、明日の夢を創り出す大事な要素ではないかと思う。
いろんなことがあるけれど、自然に感謝をしながら、多くの人たちと、昨日を楽しみ、今日を楽しめたら、きっと明日も楽しめる。
それが『こもなみ倶楽部』。
追記(2013年1月)
本活動はその後も1年間活動を続け、4年目を終えたところで運営スタッフを解散することとした。その理由には様々なものがあるが、大きくは「活動を継続していくための資金確保の見通しが困難となった」ということにある。
活動においては、当然ながら行っていくために費用が発生する。施設や設備の維持費・燃料費、関係者の人件費や交通費など必要経費が発生してくる。
しかし運営スタッフがこのような活動の運営に慣れていないと、理想だけが先行し経営概念を育てることが難しく、活動継続のための資金確保が困難となる。
類似の活動などでもその運営の大部分を助成金に頼るものが多くみられ、それらは助成金等資金が途絶えた時点で自然消滅していくものが多い。
また活動に限らず人間の習性に言えることではあるが、人が一つの物事に関心や情熱を注ぎ込める時間には限度があり、その多くは1〜2年で薄れてしまう。
特に「農」や自然を絡めた活動では、1年間の一通りの作業(種まき・苗植えから収穫まで)を経験すると、それで関心が薄れてしまうか、よりのめり込むかの2通りに大きく分かれ、残念ながら前者となる人たちが圧倒的に多い。
活動が自然消滅していく時に避けたいのは、行う側の人間関係ではなく、受け入れた地域側の人々が、「彼らは数年しか続かなかった」「所詮都会の人間の活動というのはそのようなものだ」という思いを持つことである。
その先入観が今後同様の後輩の活動がその地域で立ち上がった際に、「どうせ長続きはしないだろう」と協力を躊躇させ、弊害にもなりうる。
ある程度の成果を上げた活動を維持・継続するためには、それなりの運営能力や組織力、資金確保術が必要となってくる。
そこで本活動に関しては、これまで行ってきた内容や関係を自然消滅で途絶えさせないためにも、余力を持つ4年目を終えた時点で一区切りとし、運営スタッフを解散することとした。
「コミュニティの新生」と「社会人(特に30〜50代の男性)を取り込む」ことのできる多世代交流の場の創出を目的に行なった本活動においては、十分な成果をあげることが出来たといえる。
また次の段階へ進ませるための仮説として「持続可能な運営法の構築(事業化)」と「担い手の育成」を導き出し、次の活動への課題にあげている。
今後はこれまでの活動で培われた人脈や関係・活動内容を元に、新たに事業を展開する方向で活動を継承していく準備を、現在進めているところである。