はじめに
- (*文中1DKK[ デンマーククローネ] =約17 円で計算)
- △ 表1 デンマークの人口構成2008(参考資料1 より)
日本で抱える様々な高齢者問題に対して、最近ではその比較参考として北欧・デンマークが事例としてよく紹介されている。
また増大する医療費の財源問題からも、高税率だが高福祉が約束され国民満足度が高いというデンマークの姿が輝かしい事例として引き合いに出されることも少なくない。
確かにデンマークの福祉制度それ自体は、日本に比べると優れている部分もある。しかし日本で取り上げられているのはほとんどがデンマークの制度の良い部分だけであり、その背景や社会基盤、生活者側からの視点が語られるということは少ない。
しかし実際に現地で生活をしてみると、実はその恩恵は福祉サービスにおける部分が主であり、医療サービスにまでは行き届いてはいないことに気がつく。
そういった認識は日本では紹介されることはなく、また日本とデンマークにおいてそもそも社会を構成する要素や人々の考え方、価値観等を基礎にして実情が語られるということは少ない。
医療サービスというと日本人の意識の中では日本での高い医療技術や治療のレベルを想像する人が多いと思うが、実際にデンマークで日本ほどの医療サービスを受けられることはない。
仮に日本人が現地に行き、無料で満足する医療サービスを受けようと思ったら、まず期待通りに受けられることはないであろう。
本研究では2006 年度から2007年度にかけてデンマークの医療・福祉の実態や、実際の生活者視点からの実態調査を行ってきた。
2008 年度ではプロジェクト研究に関連した公的・民間の医療や健康に関する保険という部分に注目をし、その視点を絡めての調査を行っていった。
参考までに、デンマークの簡単な概要を述べておくが、人口は約547.5 万人(2008 年)で、その人口構成は表1のようになっている。2007 年での出生率は1.85、60 歳以上の割合は22.4%である。
住民の民間保険への加入意識
- △ 表2 健康保険の加入者推移(参考資料5 より)
- △ 表3 danmark 医療保険の加入者推移(参考資料3 より)
- △ 写真4 ヒアリングの様子
これまで日本に紹介されているデンマークのイメージから、次のような考えを持つ人は少なくないと思う。
“デンマークでは国の社会保障で医療や福祉のサービスが一定水準以上実現できている。公的サービスで福祉や介護、医療は無料で受けることができるため日本のように民間の医療保険や生命保険は存在しない。
本人や家族の生活は国の手厚い保護により保障されているわけだから、そもそも私的に保険というものをかける必要がない。そのために国民は25%の消費税と50%の所得税を納めているわけである。”
しかし保険への加入という面から調べてみると、そうではない実情が浮かんでくる。
前述の意識はあながち間違いではないが、それは10 年以上前のデンマーク社会での話である。
デンマークでは2002 年に法改正によって健康保険が非課税となったことから、健康保険の加入が急激に増えてきている。
2007 年にはその加入数は850,000件を超え、現在も増え続けている(表2)。
この健康保険の加入は主に会社での従業員の福利厚生としての加入が多い。
当然ながらこの健康保険は病気や怪我をして治療が必要になった際の保険として支払われるものである。
そのため危険の多い職場や怪我の可能性のある職場では従業員用に加入する企業が増えている。
また現在は国の医療保障をカバーする保険として、相互保険会社のSygeforsikringen“danmark”(danmark 医療保険)社の個人での医療保険加入者が年々増えてきている。
このdanmark 医療保険では、国の医療保障でカバーされているものの他に、そこでカバーしていない医薬品や整体、歯の治療やメガネやコンタクトレンズといったものまでが保険の対象となっている。
保険料はその補償内容によって変わるが、2009 年3 月現在では基本的なものでは3ヶ月99kr(約1,683 円)、最上クラスでは3か月922kr(約15,674 円)である。
加入者数は年々増加し、2007 年には200 万人を超え、国民の37%が加入をしており、年間の取引額は約20 億kr(約340 億円)となっている(表3)。
また年金に関しては、日本でイメージされる“デンマークの老後は年金生活で安泰”というイメージは実際には異なり、昨今の支給年齢の繰り上げや将来の年金額の不安から個人での年金保険の加入が年々増えてきている。
つまり国から支給される年金だけでは不足するという考えの国民が増えてきているのである。
確かに高税率による税収で手厚い社会保障が行われていれば、国民は健康保険や医療保険に加入する必要はない。
そもそも医療費が無料の国で、もしもの際の健康保険や医療保険など必要ないであろう。
ちなみにデンマークの税金であるが、よく知られている消費税に相当する付加価値税は25%、所得税は収入によって異なり、低額所得者で38%、中間層は44%、高額所得者は59%と、その所得によって分けられている。
このような中で、実際には健康保険や医療保険の加入が年々増えてきているのである。これは日本でイメージされている高福祉社会の状況とは異なるのではないだろうか。
そこで実情を探るために2008 年10 月に現地を訪れ、デンマーク人数名にヒアリングを行うとともに、デンマークの民間保険会社Topdanmark 社のコンサルタントKim Madsen 氏にヒアリングを行い、民間の意識と保険業界の現状を調査した。
まず住民のヒアリングからわかったことは、保険加入に関する意識はそれぞれの状況によって分かれるということである。
例えば独身の20 代30 代の若者や、子どもを持たない若い夫婦などでは保険加入の意識は低い。
そもそも40 代までは職を定めることなく就学意欲の高いデンマーク人には、若いころに保険に加入するだけの資金を持っていないということもある。
一方で子どもを持つ家庭やある程度の収入がある家庭になってくると、保険への加入意識は高まるようである。
先の会社で加入する健康保険や年金保険などの他にも、個人では生命保険や医療保険、年金保険に加入していることが多い。
また年金制度は日本と同じような種類があり、税収による個人の基礎年金と会社が付加する年金などがある。
公務員ではその付加年金も高く、将来は十分な支給額が得られると捉えられているようで、民間の年金保険へ加入はあまり意識していない。
しかし自営業者や芸術家などの個人事業者、会社の補助でも年金支給額は不足すると考えている住民は、民間保険会社や銀行などが運営している個人年金保険に加入することが多いようである。
デンマークの診療の現状
- △ 写真5 Topdanmark 社の健康保険カード
加入者に配られるもので、緊急時にカードに記載されているメールアドレスや電話番号に連絡することで、保険会社の提携医療機関等へのサービス提供が受けられる
医療保険への加入に関しては、現在のデンマークの医療や治療の体制に不安を感じて加入していることが多い。
特に健康に不安を感じる人や、子どもを持つ家庭の加入が多く、その背景には次のようなデンマークの現状がある。
例えばガンと診断された場合、公立の病院で手術を受ければその手術費はもちろん無料である。ただし術後の入院はせいぜい1 泊で、原則翌日には退院となる。具合が悪いので延長を患者が希望しても、受け入れられることは少ない。
ガンだけではなく他の病気でも同じで、統計でもデンマークの平均入院日数は2005 年では7.9 日(65 歳以上では13.1 日)で、これは日本の約4 分の1 である。
また住民が夜間に具合が悪くなり緊急病院に運ばれたとしても、痛み止め等の応急治療をされて自宅へ帰されるのが通常である。
それでも回復しない場合には翌朝、まずは自身の家庭医に連絡をしてその予約を取らなければならない。
よほど悪いようであれば別だが、たいていはそこで1 週間程度は待たされる。
そして家庭医が検査の必要性を判断し病院に連絡をすることで初めて病院で専門の検査が受けられるようになる。
しかしこの病院の診察にもまた予約が必要となり、そこでかなりの期間を待たされる。
ちなみに待ち期間は診察内容によって異なり、すぐに診てもらえるものから3 ヶ月以上待たされることも通常であり、この診察の待ち期間はデンマークでは常に議論の的になっている。
さらに当然のことながら病院にもそれぞれ専門診療科があり、診察内容によっては自分の暮らす町の病院ではなく、車で1 時間はかかるような隣町の病院へ行かなければならないことも少なくない。
デンマークでも日本と同じく医療や福祉にかかる費用は年々増え続けており、医療はアムト(州)が、福祉・介護はコムーネ(地方自治体)が運営をしているが、経済的な問題などから結果的に2007 年1 月にはそれまで14あったアムトを5 つのレギオン(広域行政区)に、275 あったコムーネを98 に再編成させた。そしてそれに伴い病院の統廃合が進み(2005 年での公共病院数は49)、病院が遠くなる地域も出てきたのである。
またデンマークの公共病院では飛び込みでの診療は行っていない。自由診療で高額な費用を自己負担すれば可能だが、国の保障ではない自由診療制を選択している国民はよほどの金持ちであり、その割合はわずか2%である。
日本では多くの人が、デンマークでは高い税金にだけ我慢をすれば、日本の医療システムと同様に、医療にかかる診察料や手術費、入院費、検査費やサービス料、薬代までを各医療機関で個別に払うことはなく、現在の日本のように飛び込みで病院に行っても、一番具合の悪いまさにその時に、しかるべき専門医に診てもらえ、迅速で適切な処置が当然のように受けられる、という誤解をしているのではないだろうか。
そもそもデンマークの高福祉社会は“医療費が無料”ということなのではない。
“お金がなくて医者にかかれない人などはいない”というデンマークの思想哲学からくる共助の社会システムなのであり、そのための費用はできるだけ働くことの出来る元気な国民が負担すべきだという考えなのである。
また“極力病気にならないように自分の体は自分で管理をする”ということであり、高齢期に病気になったとしても日本のような延命治療はほとんど行われない。
あまり知られてはいないが、デンマーク人の平均寿命は78 歳(2008 年)と西ヨーロッパの中では実は最も低い。
それは必要以上の医療を行わないからである。筆者の知るところでは日本のように手厚い医療処置はデンマークにはない。
日本へ紹介されているデンマークの「福祉」に関する情報は間違いではない。
しかし日本ではデンマークの医療事情や生活状況までもが日本と同じレベルのように語られている節があるように思われる。
また、デンマークでは国の保障で受けられる診療は年々限られてきており、保障外診療は多々ある。
もともと歯の治療などは保障外であり、その高額な治療費から歯科医療保険への加入率は高い。
まとめ
上記のような現状から、家庭医や公共の病院での診察を待てない場合、住民は私立の病院を使うことになる。
しかしもちろんそれは社会保障の対象外となっているため、利用者は診療や手術、治療に関しては高額な費用を支払わなければならない。
そこでこれらに不安を感じている人や、子どもを持つ家族の多くは、医療保険や健康保険、いざという時の特約(治療費に使えるなど)を持つ生命保険や年金保険に加入する傾向が増えてきているのである。
デンマークの社会制度が優れていない、というわけではない。ただ日本で紹介され日本人が思い描いているような理想的なシステムだとは必ずしも言えないのである。
日本ではデンマークは税金が高いが、医療費や教育費が無料、生活サービスは行き届き年金の支給も十分で世界幸福度No1 に選ばれている国だという部分だけを都合よく理解し、強調しすぎであるように感じられる。
しかしそこに国の構成や社会基盤、歴史や大学進学率などの社会背景、医療の実態や死生観などが語られていることは少ない。
そもそも歴史も文化も異なる国に、自分たちが理想とするシステムなどはないのではないだろうか。
日本人の長寿というのは日本人のDNA が長生きなのではなく、日本の社会システムによって単に長く“生かされている”という部分が大きいのではないだろうか。
日本での今後の健康長寿社会のあり方を考えていく際に、デンマークや他の国々を参考にすることは良いことだとは思う。
しかしただ外国の優れて見える制度を称賛し、それをそのまま取り入れようとするのではなく、裏側にある問題点も見て、自分たちの国のシステムときちんと比較をしながら参考にしていかなければ、問題点までを取り入れる恐れも出てくる。
デンマークの福祉の体制やシステムは確かに優れている部分がある。
それらを参考としていくのであれば、医療事情や社会状況、ライフスタイルまで含んだ社会システムや文化、風土までをも考えて比較をしていくことが重要なのではないだろうか。
最後になるが、日本では『北欧』という括りでデンマークやスウェーデン、ノルウェー、フィンランドが同じように語られることも多いが、日本人の感覚に置き換えて言えば日本と韓国、中国ほどの違いがある。
本稿で述べていることはデンマークに関することであり、他の北欧諸国に当てはまるとは限らないことを合わせて述べておく。
参考資料
- 1) デンマーク統計年鑑(Statisk Aarborg)(2008)
- 2) Topdanmark 保険会社ホームページ:www.topdanmark.dk
- 3) Sygeforsikringen “danmark”社ホームページ:www.sygeforsikring.dk
- 4) Forsikring og Pension(保険&年金)ホームページ:www.forsikringogpension.dk
- 5) COPENHAGEN ECONOMICS レポート:SUNDHEDSFORSIKRINGER – EN LOSNING PA FREMTIDENS VELFAERD?